私たちは「シルクロード」と聞くと、砂漠を進むラクダの隊商を思い浮かべます。
中国から中央アジアを抜け、さらに西へ。
絹や陶磁器、香辛料などが東西を行き交った道です。
しかし、シルクロードを長い歴史で見てみると、運ばれたのは「商品」だけではありません。
技術、植物、生物、製造方法、そして文化そのものが移動していました。
その象徴とも言えるのが、絹と茶です。
中国は「世界が欲しがるもの」をいくつも生み出した
古代から中国では、絹、茶、陶磁器、紙など、後に世界的な商品となるものが次々と生まれました。
その中でも絹は特別でした。
家蚕――いわゆるカイコは、人間によって長期間家畜化された昆虫です。
中国では、カイコを育て、桑を栽培し、繭から細い糸を取り出して織物にする高度な養蚕技術が発達しました。
そしてその技術は、長い間厳重に秘匿されていました。
UNESCOによれば、中国では絹の製造技術が約3,000年にわたって厳しく守られ、絹は漢代には中国を代表する重要な輸出品となっていました。中国産の絹は遠くエジプトなどでも発見されています。
つまり最初のシルクロードは、
中国で作られた価値を、遠く離れた地域まで運ぶ仕組み
だったのです。
ところが、やがて「作り方」まで外へ出ていく
6世紀。
東ローマ帝国、いわゆるビザンツ帝国では、中国や中央アジアから運ばれてくる絹は非常に高価な商品でした。
中心都市は現在のトルコ・イスタンブール、当時のコンスタンティノープルです。
当時のビザンツは、絹を手に入れるためにペルシャなどの中継勢力に依存していました。
そこで皇帝ユスティニアヌスの時代、絹の生産方法そのものを手に入れようとします。
6世紀の史料には、東方で養蚕を知った僧侶たちが、カイコから絹が作られることを皇帝に説明し、ビザンツ側が自国内での養蚕を実現しようとしたことが記録されています。
ここで世界史に大きな変化が起きます。
それまでは、
中国で作る ↓ 世界が買う
だったものが、
中国の技術を入手する ↓ 別の国でも作る
に変わったのです。
これは後の「茶」の歴史と驚くほど似ています。
茶も最初は中国の圧倒的な商品だった
茶の起源と長い飲用文化の中心も中国です。
ヨーロッパで茶の需要が急増すると、中国茶は巨大な国際商品になります。
17~18世紀には、英国東インド会社が中国茶を大量に輸入しました。
18世紀末には、茶は英国東インド会社にとって極めて重要な商品となり、中国との貿易そのものを左右するほどの存在になっていました。
しかし英国には大きな問題がありました。
茶を中国から買い続けなければならない。
中国側が欲しがる英国製品は限られ、英国から大量の銀が流出していきます。
そこで英国は、絹のときのビザンツと同じ発想にたどり着きます。
中国から毎回買うのではなく、自分たちで作れないのか。
英国は「茶を運ぶ国」から「茶を作る国」へ変わった
19世紀、英国はインドで本格的な茶生産を始めます。
1830年代にはアッサムで茶園開発が進み、中国から茶の種子だけでなく、製茶に関する知識や中国人技術者まで導入されました。
1838年にはアッサム茶がロンドンへ送られ、翌年には英国で競売されています。
その後、生産量は急激に拡大します。
アッサムだけでも1872年には約600万ポンドだった茶生産が、1900年には約7,500万ポンドに達しました。
そして1888年には、英国がインドから輸入する茶の量が中国茶を上回ります。
ここで世界の茶産業が大きく変わりました。
中国茶を世界へ運ぶ時代から、世界各地に茶の巨大生産地を作る時代へ移ったのです。
セイロンでは、さらに巨大な紅茶産業が生まれた
現在のスリランカ、当時のセイロンも同じです。
もともと英国統治下のセイロンでは、コーヒーが主要産業でした。
ところが19世紀後半、コーヒーさび病によってコーヒー産業が壊滅的な被害を受けます。
その代替作物として一気に広がったのが茶でした。
スコットランド出身のジェームズ・テイラーは1860年代にセイロンで製茶を試み、やがて茶園経営を成功させます。
コーヒー園だった約12万ヘクタールもの土地が茶園へ転換され、その後セイロン茶は同国を代表する輸出産業へ成長しました。


ここで茶は、もはや単なる農産物ではなくなります。
茶園 +工場 +鉄道 +港 +蒸気船 +オークション +金融 +保険
という近代的な巨大産業になります。
陸のシルクロードと海のシルクロード
古代から存在したシルクロードは一本の道ではありません。
中国から中央アジア、イラン高原、コーカサス、トルコ、さらにヨーロッパへ続く陸上交通網。
そして中国・東南アジア・インド・中東・アフリカなどを結ぶ海上交通網。
UNESCOも、シルクロードをこうした陸路・海路を含む巨大な交易ネットワークとして捉えています。
近世になると、この海上ルートにヨーロッパの列強が次々と進出します。
ポルトガル。
オランダ。
イギリス。
フランス。
彼らが最初に求めたのは、アジアに存在する価値ある商品でした。
香辛料、絹、陶磁器、茶。
しかし次第に、
商品を買う ↓ 港を押さえる ↓ 航路を押さえる ↓ 生産地を支配する ↓ 自分たちで大量生産する
という構造へ変わります。
これは近代世界経済を考える上で非常に大きな変化でした。
茶は「運ばれる価値」から「再生産される価値」になった
絹や香辛料の時代、人々が欲しがったのは「その土地でしか作れない商品」でした。
ところが茶では、英国がさらに一歩進みました。
中国から茶を輸入するだけではなく、
インドやセイロンに新しい茶生産地そのものを作った。
そこで作られる茶も変わります。
伝統的な地域茶だけではありません。
大量生産・大量流通に適した、
BOP BOPF Fannings Dust
といった粒度別の紅茶が巨大な国際商品になります。
茶は、
土地と文化に結びついた嗜好品
であると同時に、
世界中で大量供給できる工業的農産物
にもなったのです。
そして紅茶は、再び中国文化圏へ戻ってくる
この歴史の面白さは、ここからです。
19世紀、英国は中国への依存を減らすためにインドやセイロンで紅茶産業を発展させました。
その英国が1842年以降統治したのが香港です。
英国人は香港に英式ミルクティーを持ち込みました。
当初は高級な西洋料理店などで飲まれる、一部の富裕層向けの飲み物でした。
しかし第二次世界大戦後、1950年代に香港の人口と労働者が急増します。
冰室、大牌檔、そして後の茶餐廳が増え、そこで高価な英式ミルクティーが香港人向けに改造されていきます。香港政府系の「香港記憶」も、セイロン紅茶を使った英国式ミルクティーが戦後に庶民向けへローカライズされ、細かな茶葉と布製フィルターを使う濃厚なスタイルへ変わっていった経緯を記録しています。
つまり、
中国で茶文化が生まれる ↓ 英国が中国茶を輸入する ↓ 英国がインド・セイロンで茶を大量生産する ↓ セイロン紅茶が香港へ運ばれる ↓ 香港の中国系住民が独自の飲み物へ作り替える ↓ 絲襪奶茶が生まれる
という、壮大な一周が起きています。
一杯のミルクティーの中に世界史が入っている
香港のミルクティーをただ「香港名物」として見ると、一杯の飲み物です。
しかし歴史を遡ってみると、
中国の茶文化。
英国東インド会社。
インドの茶園。
セイロンのプランテーション。
海上シルクロード。
英国統治下の香港。
そして戦後の香港の労働者文化。
それらが全部つながっています。
もっと長い時間軸で見るなら、絹も同じでした。
中国だけが持っていた価値が世界中で求められ、
やがて世界は完成品を買うだけでなく、
「その価値を自分たちでも作りたい」
と考えるようになる。
絹ではカイコと養蚕技術が移動しました。
茶では茶樹と製茶技術が移動しました。
だからシルクロードとは、単に物が運ばれた道ではありません。
価値そのものが移動し、コピーされ、改良され、別の文化と混ざり、新しい価値へ変化していった道だったのかもしれません。
そしてその長い歴史の先に、
私たちが今日当たり前のように飲んでいる一杯の紅茶があります。


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