紅茶のインド初導入
インドに紅茶の茶樹が初めて持ち込まれたのは18世紀後半のことです。1774年、当時ベンガル総督であったウォーレン・ヘースティングズが、中国から取り寄せた茶の種をブータン駐在の英国使節ジョージ・ボーグルに送付し、栽培を試みました 。この実験は成果を上げませんでしたが、その後もイギリス東インド会社はインドでの茶栽培に関心を寄せます。1780年にはロバート・キッド大佐がカルカッタ近郊の植物園(現在のコルカタ・ハウラー植物園)で中国種の茶樹栽培を試みました 。しかしこれも本格的な生産には至らず、19世紀初頭までインド国内での紅茶生産は起こりませんでした。

19世紀に入り、イギリスは中国からの莫大な茶輸入に依存する状況を打破すべく、インドでの茶生産を国家的に推進します 。1823年、アッサム地方でスコットランド人ロバート・ブルースが現地シンポー族が飲用していた野生の茶樹を発見しました 。これは中国種と同じツバキ科の植物であることが確認され、カメリア・シネンシス・アッサム変種(Camellia sinensis var. assamica)と命名されます 。この発見を契機に、1830年代には東インド会社が「茶業委員会」を設置してインドでの茶栽培計画を本格化させました。1834年12月にはチャールズ・アレクサンダー・ブルース(ロバートの弟)がアッサム産茶葉の標本をカルカッタ植物園に送り、正式な学名分類が行われています 。
イギリス人たちは当初、中国から茶樹や製茶技術を移入する道も模索しました。実際、プラントハンターのロバート・フォーチュンが清朝から茶の苗木2万株あまりを密かに持ち出し、1848–51年にダージリンへ導入しています 。フォーチュンは茶の苗だけでなく製茶の技能を持つ中国人技師たちもインドに伴い、インド紅茶産業の黎明期に中国の技術が活かされる素地を作りました 。もっとも、持ち込まれた中国種の多くはインドの環境に適応できず枯死しましたが、技術移転には大きな成果がありました 。こうした努力を経て、1830年代後半にはインドでの紅茶栽培がいよいよ軌道に乗り始めます。
茶産業のインド各地への拡大プロセス
インド初の商業茶園は1837年、東インド会社によってアッサム上流域のチャブアに開設されました 。続いて1838年5月にはアッサム産の紅茶が初めてイギリス本国へ試験出荷され、市場で好評を博します 。これを受け、1839年にロンドンで最初の紅茶栽培会社「アッサム会社(Assam Company)」が設立され、本格的なプランテーション経営が始まりました 。当初、中国から移植した茶樹はアッサムの高温多湿な気候に耐えられず不調でしたが、在来のアッサム種茶樹が予想以上に繁茂したため、以後は主に在来種による栽培に切り替えられました 。

アッサムで成功を収めたイギリス人たちは、紅茶栽培をインド各地に広げていきます。まず目を付けたのがヒマラヤ山麓の涼しい高地でした。1835年には英領インドがシッキム王国から現在のダージリン地区を割譲され、1840年代に同地での茶樹試験栽培が始まりました 。1850年代にはダージリンで商業茶園が次々と開設され、紅茶の名産地として発展します (詳細は後述)。同じ頃、英国人プランターたちはヒマラヤ西麓のインド北西部(現在のウッタラーカンド州やヒマーチャル・プラデーシュ州)にも進出しました。例えばパンジャーブ地方ではカングラ渓谷が適地とされ、1849年に最初の茶樹苗が持ち込まれています 。南インドでもニルギリ山地(タミル・ナードゥ州)などで茶栽培の試みが行われ、1850年代以降プランテーションが形成されました 。

こうした拡大の結果、紅茶プランテーションの数は飛躍的に増えました。記録によれば、1863年時点で北インドのクマオン、ガルワール、デラドゥン、カングラ、クルーなどに合計78か所の茶園が設立されていたと言います 。1870年代までにインドは世界有数の紅茶生産地帯となり、特にアッサムは世紀末には世界最大の茶産地に成長しました 。以下では、主要産地となったダージリン、アッサム、シッキム、カングラ各地域での茶園形成の歴史を詳述します。
ダージリンにおける茶園の形成
ダージリンの丘陵地に造成された紅茶プランテーション(西ベンガル州ダージリン)

ダージリンは「紅茶のシャンパン」の異名を取る高級紅茶の産地です。その茶産業の歴史は、イギリス統治下の19世紀半ばに始まりました。ダージリンは元来シッキム王国の領土でしたが、イギリスが気候の良い避暑地として注目し、1835年に割譲を受けました 。初代ダージリン行政官となったアーチボルド・キャンベル博士は、気候風土が茶栽培に適すると考え、1841年に自宅の庭に中国産の茶の種を試験的に植えました 。この種はヒマラヤ山中のクマオン地方から取り寄せられた中国種で、ダージリンの土壌に良く適応して順調に育ちました 。1840年代には東インド会社がダージリンに茶樹苗圃を開設し、より規模の大きな栽培試験が行われます。
商業ベースでの第一号の茶園が開かれたのは1850年代半ばでした。記録によれば、1856年に英人プランターのサムラー大尉がダージリン近郊アロオバリ(現在のアルバリ)に最初の茶園を開設し、これはカーシオン&ダージリン紅茶会社の管理下に置かれました 。続いて1859年にはブラフム博士がハルシン(現在のホルシン)やドゥーテリアの茶園を創設しています 。以後、1860年代にかけてダージリン各地に茶園が雨後の筍のように設立されました。例えばトゥクバル(現在のプッタボン)茶園やバダムタム茶園がレボン紅茶会社により造成され、マカイバリ(1859年)、シンギル、ギダパハール等の名園も次々誕生しました 。1866年時点でダージリン地区には約39か所の茶園が存在し、年間約21,000kgの紅茶を生産していました 。その後も発展は続き、1874年には茶園数が113に達し、面積約18,888エーカーで年間390万ポンドの紅茶を産出したと報告されています 。ダージリン紅茶は中国種の茶樹による独特の芳香と繊細な味わいで世界的評価を確立し、この地域はインド有数の紅茶産地となりました。
アッサムにおける茶園の形成
アッサム州に広がる紅茶プランテーション(インド東北部アッサム州)

アッサムはインド紅茶発祥の地であり、現在でも最大の紅茶生産地です。前述のように、1823年にロバート・ブルースがアッサム上流域で在来の野生茶樹を確認したことが契機となり、紅茶産業が興りました 。ブルースの協力者であったアッサム人貴族マニラム・バルブハンダリ(マニラム・デーワン)はその栽培法を英国人に教え、後に自らもインド人初の私営茶園主となっています 。イギリス当局はシンポー族から茶種子を入手し試験栽培を進め、1837年にチャブアで最初の茶園を設立しました 。さらに1838年にはアッサム産紅茶の試験販売がロンドンで成功を収め、紅茶商業化への道が開かれます 。この成功により、前述のアッサム会社(1839年設立)が紅茶プランテーション経営を開始し、ディブルガルやジョールハット周辺に大規模農園を展開しました 。
アッサム地方の茶園は当初、英国人プランターおよび現地採用の労働者によって運営されました。イギリス人は中国から茶の製造技術者を連れてきて現地に技術指導を行わせたりもしています 。一方、現地有力者では前述のマニラム・デーワンが1840年代にチャーガーとセルハングに自営茶園を開設しましたが、彼は1858年に英領政府への反乱嫌疑で処刑され、インド人経営の茶園の本格的拡大はもう少し時代を下ることになります。1850年代以降、アッサムの茶産業は飛躍的に拡大し、安価で濃厚なアッサム紅茶はイギリス本国の大衆に愛飲されるようになりました 。19世紀末までにアッサムは世界最大の紅茶生産地となり、インド経済の重要な柱となりました 。現在でもアッサム州はインド全体の紅茶生産の過半を占め、その名は「アッサムティー」として世界的ブランドになっています。
シッキムにおける茶園の形成
シッキムのテミ茶園(南シッキム県)。1969年に当時のシッキム王国政府によって造成された。
シッキム州(旧シッキム王国)は他の地域に比べ紅茶産業の歴史が新しい地域です。シッキム王国では19世紀、英国による茶園開発は行われませんでしたが、20世紀中頃まで独立王国だった同地でも紅茶生産への関心が芽生えます。特にインド併合直前の国王パルデン・トンドゥプ・ナムギャル(Palden Thondup Namgyal)は紅茶産業を興して雇用創出を図ろうと考えました 。国王は友人であったダージリンの英国人プランター、テディ・ヤングを招き、1969年に南シッキムのテミ(Temi)に茶園を開設させます 。**これがシッキム初の紅茶農園「テミ茶園」**であり、同園はシッキム政府の事業として運営されました 。テミ茶園は標高1,500m前後の山間に位置し、良質な中国種の茶葉を用いた紅茶を生産しています。シッキム産紅茶はダージリンに似たフローラルな香りと穏やかな味わいで評価を得ており、現在もテミ茶園はシッキム州唯一の紅茶農園として稼働しています (2002年には小規模な民間農園ベルミオク茶園も加わりました )。シッキム州は2016年に全州が有機栽培州と宣言されており、テミ茶園の紅茶もオーガニック紅茶として知られています 。
カングラにおける茶園の形成
ヒマーチャル・プラデーシュ州カングラ渓谷の茶畑(背後にはヒマラヤ山脈)
ヒマーチャル・プラデーシュ州カングラ渓谷も、19世紀半ばに紅茶産地として開発されました。1849年、インド北西部の英領アグラ・パンジャーブ管区に勤務していた植物学者ウィリアム・ジェームソン博士がカングラ地方を視察し、同地が茶栽培に理想的と報告しています 。ジェームソンはアルモラやデラドゥンで育成した中国種の茶苗を持ち込み、カングラ盆地内の3か所(標高約750mのカングラ町、870mのナグロタ、960mのバワルナ)に試験的に植え付けました 。その結果、高地のナグロタとバワルナでは苗が良好に生育し、茶樹栽培に適することが確認されました 。これを受けて1852年、イギリス植民地政府はパランプル近郊ホルタ(Holta、標高約1290m)の地に大規模な官営茶園「ヘイリー・ナガー茶園(Hailey Nagar Tea Estate)」を開設しました 。ホルタ茶園はロジャーズ氏という支配人の下で順調に発展し、産出量も年々増加しました 。1850年代末にはこの官営茶園の成功を見て、民間の資本家やプランターもカングラ渓谷に参入し始めます 。政府はホルタ茶園を1866年に民間へ払い下げ、以後はストラット少佐らが引き継ぎ経営しました 。民間による周辺土地の買収と茶園開発も進み、1867年までにカングラ谷には19か所の茶園が開設されています 。これら茶園の総栽培面積は約2,635エーカー、1868年のカングラ地方紅茶の総生産量は約24万ポンドに達しました 。カングラ紅茶は渋みが少なく柔らかな風味を持つ緑茶・黒茶として評価され、欧州にも輸出されました。しかし、1905年に発生したカングラ地方の大地震で多くの茶園が壊滅的被害を受け、英国人経営者の撤退を招きます。その後、インド人によって茶園は再建され細々と生産が続けられました。近年ではカングラ茶は地理的表示(GI)保護も取得し、往時の名声復興に向けた取り組みが進められています。
紅茶産業の主要人物と中国・日本との関係
インド紅茶産業の成立に関わった主要人物として、まず挙げられるのはアッサム紅茶の開拓者たちです。前述のロバート・ブルースと弟のチャールズ・アレクサンダー・ブルースは、アッサムに自生する茶樹を発見・分類し、その商業化に尽力しました 。チャールズ・ブルースは東インド会社による最初のアッサム茶園の監督も務め、紅茶製法確立に貢献しました。またアッサム人のマニラム・デーワン(本名マニラム・ダッタ・バルブハンダリ)は英国人に茶樹の知識を提供し、最初のインド人茶園経営者として知られます 。ダージリン紅茶に目を向けると、1840年代に同地で茶樹栽培を主導したアーチボルド・キャンベル博士や、最初の茶園を開いたサムラー大尉、そして名園マカイバリ茶園を創設したグレン・バーナード氏(ケルトン氏)などが重要人物です。また19世紀後半にはデービッド・ウィルソン(ハッピーバレー茶園経営)やジョージ・クリスティソン(ダージリン紅茶会社の重役)らがダージリン茶の発展に寄与しました 。カングラではウィリアム・ジェームソン博士が「茶の伝道師」として歴史に名を残しています。
中国との関係については、インド紅茶産業はその黎明期から中国茶の強い影響を受けました。英国は清朝から優良な茶種や製茶技術を得ようと躍起になり、ロバート・フォーチュンによる茶苗・技術者の移送 、さらには清国茶の栽培知識の研究など、様々な形で中国の茶文化を取り入れました。アッサムにおいても創成期には中国人の製茶職人が雇われ、発酵茶の加工技術習得に寄与しています 。インド産紅茶そのものも元はといえば中国茶への対抗商品として位置づけられ、19世紀後半にはロンドン市場で中国茶を凌ぐ支持を得るに至りました 。一方、日本との関係については、19世紀当時は目立った交流は記録にありません。日本は当時緑茶生産が中心で、インドの紅茶生産とは系統を異にしていたためです。ただし、インドで分類された**「カメリア・シネンシス・アッサミカ」の学名には日本人植物学者・北村四郎の名が冠されており** 、後年の学術的交流の一端がうかがえます。また明治時代の日本が紅茶の生産を試みた際、セイロン(旧英領)やインドの技術を参考にしたとも言われます。総じて、中国由来の品種・技術なしにはインドの紅茶産業は成立し得なかったといっても過言ではなく、インド紅茶の歴史はアジア諸国との繋がりの中で形作られたものなのです 。
**参考文献・出典:**インド紅茶協会公式サイト、インド紅茶史に関する学術記事 および各地域の歴史に関する文献 等を参照しました。

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